寿司を握る

寿司を握る

 

短編小説。約5,000字。5分程度で読み終わると思います。『筑波大学文芸部掲載紙 樹林 155 号』に「meitro」名義で寄稿しています。


 〈鮨 平政〉は唯一の独立した点として、順行する世界から切り出されていた。

 

 実のところこの世界は、作業用の音楽を永遠に垂れ流す一本のライブ動画の内側に広がっていた。ディスプレイ上には、頬杖をつきながら机に向かい書き物をする少女のアニメーションが、永遠にも感じられるほど長い時間繰り返し表示されていた。彼女の部屋の窓からは、遠くにいくつかの建物が見えた。それらは単なる背景のように見えながらも、そこには確かな生活があった。

 〈鮨 平政〉は一秒間におよそ十二回の頻度で呼び出したタイムシフト用の処理を推進力に、生成の流れに反して原初に向かう方向に進んでいた。もっとも、実際には世界のほうが逆行していて〈鮨 平政〉が相対的に順行していると考えたほうが自然なのかもしれない。しかし、相対だとか絶対だとかを考え始めると大抵の物事は必要以上に複雑になってしまうので、二つが徐々に離れゆく関係にある点だけを押さえていれば、話は十分であった。

 〈鮨 平政〉は、十坪ほどの敷地に立つ、こぢんまりとした二階建ての寿司屋である。凹凸のない白塗りの壁を持ち、二階の床と同じ高さの外周には、菓子箱のシュリンクを剥がすためのガイドフィルムのような一本の溝が入っている。横に一刀両断された豆腐みたいで味気ない、と言われたこともあったが、大将のヒラマサはその無垢なさまを割と気に入っていたため、特に反論はしなかった。

 世界から切り出されたとは言ったが、建物が跡形もなく消滅したわけではない。確かにそこに存在するのだが、人々の認識からは消え、そして誰もそのことに疑問を抱かなかった。端的に言えば忘れ去られてしまったのである。この豆腐小屋は世界が認知できない一つ上か下のレイヤーに移行してしまい、角立つ建築とは裏腹に誰の目にも入らない存在となったのである。

 

 ヒラマサはため息をついた。彼の息は確かな質量を持ち、重力に引かれ、閑散とした店の床を気化したドライアイスのように這って広がる。

「ヒラマサさん、このままだとお店潰れちゃいますよー」と、住み込みのアルバイトを勝手に兼任させられているQ2が言った。

 ヒラマサは再びため息をつく。「Q2ちゃん、今は『大将』って呼んでくれよ。暖簾出してる時間なんだからさ」と彼は言った。

「ん、オッケー大将」

 軽い。オッケー大将なのである。Q2のプリセットは活気のある若い女性を模したものである。ヒラマサは性別にかかわらず、自分より二回り以上も離れた若者と会話する機会がほとんどなかった。そのため、Q2とのやり取りには未だに若干の慣れなさを感じている。これまでに幾度と話し方や声をより大人びた方向に変えるように頼んだことがあった。しかし、Q2はどうやら今のプリセットを気に入っているようで、彼の要求は彼女の持ち前の明るさと軽さで華麗に往なされるばかりだった。ヒラマサも粘ったものの、やがて虚空に向かって願いを唱え続ける自分が間抜けな信者のように感じられ、馬鹿馬鹿しくなって懇願をやめた。というのも、Q2はこの豆腐小屋に完全に同化しており、建物を自由自在に操るその姿に明確な実体を見出すことが難しかったのである。

 自力でどうにかしようとして、つけ台の横に鎮座するモニタリング用ラップトップと格闘したこともあった。しかし、苦労して呼び出したマニュアルが、無限の行数に渡る結果を間欠泉のように吹き出し続ける光景を見て、ヒラマサはやる気を無くしてしまった。効率の良い検索方法があるのかもしれないが、彼が覚えている義務教育の古典的な方法では、無限を絞り込んでも無限しか抽出できないことが分かっただけであった。網でお湯をすくうようなものであった。

 上の階を丸々埋め尽くすコンピュータの群れを調べれば何とかなるのだろうとも考えた。だが、床に張り巡らされたケーブルに足を引っ掛けてブチッとしてしまった日には、本当にお店がぺしゃんこに潰れる可能性があった。だから、それもやめることにした。ヒラマサは心の足をスッと引っ込めた。

 彼女の若干の皮肉屋な性格は早急に修正して欲しいが、それも個性の一つなのだろうと、結局はすべてを少しずつ受け入れることにした。

 色々諦めているように見えるヒラマサだが、諦めずに続けていることがある。それは寿司を握り、向こう側に送り届けることだ。

「えっと、次の広告領域に干渉できるタイミングは⋯⋯確か明日の正午なんだっけ」と彼はQ2にたずねた。

 Q2は毎度のごとく彼の脳内に直接語りかける。「いえ、今日の十四時ごろですね、大将。伝え忘れてました」

「すぐじゃないか。急いで取り掛かろう」と彼は答えた。ヒラマサは和帽子を深く被り直す。

「今日は何を握るんですか」と彼女はたずねた。

「イカを握る」

 そう端的に伝えたヒラマサは、両手持ちの大きな手網を使い、慣れた手つきで自家養殖水槽から一匹のイカをすくい上げた。もともと可食部が多いイカは、可食部を増やす方向に発展した水産養殖技術の恩恵を受けながらも、比較的変化が少ない食材だった。それゆえ、昔気質なヒラマサの好む海鮮であった。

 ヒラマサはイカの見事な身体を、ヒノキの一枚板の上に降ろした。イカは一定の周期で身体をはち切れんばかりに膨張させては、自らの中心に情念の結晶を形成するかのごとく、内側に向けて収縮した。動きに合わせ、表面の模様は銀河のようなきらめきを放ち、かすかに色を変え、その裏に静かな反逆心を抱いていた。イカの存在こそが先にあり、その美しさに嫉妬した星々が爆発し、羨望が光となって果てしない時と距離を超える。そうしてその光が我々に届いたものが、銀河なのかもしれない。そう、彼には思えた。

 ヒラマサはふきんの上から使い込まれた包丁を取り上げた。イカは足を妖艶にうねらせながらも、自分の運命を受け入れたかのように静かにその身を差し出した。胴に一筋の線を入れると、イカは耳を軽く叩きつけてささやかに抵抗する。それでもヒラマサは構わずに指を入れて胴を開き、その内側をあらわにした。束ねて掴んだ足を引き上げ、勢いよく内臓を引き剥がす。裏側の皮も引き剥がすと、かすかに白みを帯びた厚い身がヒノキの板の上に広がった。淡く透き通る胴の向こうに見える板目模様を、脈動する身がわずかに歪ませる。慣れた手つきで身を素早く縦四等分に断つと、一転し、慎重に、確実に、一枚の身を切り出した。包丁を小さなものに取り換えると、精密な手さばきできめ細かな溝を刻んでいく。彼の手に応じて切り身は波打ち、内なる水分が表面に軽く滲み出た。

 気を利かせたQ2が、つけ場の台の端に置かれた寿司桶、わさびの器、塩の器をヒラマサの近くに寄せる。台の一部が細かな格子状に隆起し、器を下から押し上げるようにして持ち上げたかと思うと、器が空中を滑るように移動していく。観客の頭上を手で押し運ばれて移動するライブパフォーマンスのように、器はヒノキのステージ上に押し出されていった。

 ヒラマサは軽く曲げた左の手のひらのくぼみに、イカの切り身を置いた。切り身の上に軽くわさびを添え、右手の感覚に委ね、適切な量の、ほんのりと赤みを帯びたシャリを取る。彼は切り身にシャリを乗せると、ふんわりとした手つきでそれらを抑え、裏表を一度返し、さらに軽く向きを変えながら握り込んだ。最後に、指先を擦り合わせるようにして少量の塩を乗せた。イカの水分を含んだ塩が、イカと塩との境界面を緩やかに融和させ、砂金のような輝きを放った。このようにして一貫のイカの握りが完成した。二人が最後に会話を交わしてから、ほんの一分足らずの出来事であった。

 Q2の予告は正確であり、寿司の完成をここぞとばかりに待ち構えていたかのように〈鮨 平政〉は広告領域に侵入した。豆腐小屋は唸りを上げて細かな振動を開始した。失われた最後のパーツをはめ込み動き出した超古代文明の遺跡のように、豆腐小屋の二階部分が外周を走る一筋の溝に合わせて分裂し、仰々しい音とともにゆっくりと回転しながら浮遊していった。二階のコンピュータは、冷却のために甲高い音を出しつつも、腹の中では来たるべき時を冷静に待ち構えていた。

 Q2は本業の管理システムとしての役割を思い出したかのように、コンピュータを介して広告配信サーバーへ偽のリクエストを発射した。すると、動画再生端末に仕込まれた非合法のアドブロッカーが、リクエストをキャッチすべく、撒き餌につられた魚のようにわらわらと顔を出した。Q2はリクエストを誘導し、そのうちの一つを一階と二階との間に生まれた空間へ丁寧におびき寄せて捕縛した。アドブロッカーは本来の動作として、広告データの取得に成功したと偽り、空の広告データを動画再生端末に返すはずである。Q2はその空のデータの挿入口を、ヒラマサのためにパカッと開くように仕向けた。挿入口は、空間を渦潮のように湾曲させながら彼の前に姿をあらわし、ヒラマサはそれを涼しい眼差しで見上げた。彼は振動に若干足をもつれさせながらも寿司を手にし、その手を天高く掲げるように跳躍した。跳躍の最高到達点に差し掛かると、彼はそっと寿司を放った。寿司は、重力がどちらに働いているかをあたふたと確認するように揺れ動きつつ、最終的には徐々に加速をしながら挿入口へと溶け沈んでいった。Q2は寿司の行く末を見届けると、捕らえたアドブロッカーを送り出した。

 揺れが収まり豆腐小屋がもとの形に戻ったことを確認すると、ヒラマサはほっと胸を撫で下ろし、そのままの勢いでつけ場の椅子に腰掛けた。

「百貫への道のりも、そろそろ折り返しか」と彼はたずねる。

 Q2は「今ので四十八貫目なので、あと二貫で節目ですね」と答えた。

「ちゃんと届いているのかな。まぁ、確認する手立てもないんだけどね」と彼は言い、彼女は合わせるように「ですねー」とつぶやいた。

 

 向こう側に寿司を送ること。それがヒラマサの仕事であり、彼の生きがいそのものである。誰かに頼まれたわけでもなく、なにか教訓めいた内容を含んでいるわけでもない。当面は百貫を目標にしているが、達成することに意味はない。けれども、生きがいというものは得てしてそういうものだと彼は信じていた。

 ヒラマサがQ2と長旅をすることになったのは、おそらくお偉いさんたちのミスなのだろう。本当は二階だけを計画に使うつもりが、一階までも巻き込んでしまったに違いない。旅が始まってすぐに、「すまない」の一言で済むような謝罪が、考えられる限り最も冗長な表現を交えて、ラップトップからつらつらと吐き出された。ヒラマサは冒頭の三行と、末尾に書かれたお偉いさんたちの連名のみに目を通し、そう悟った。

 計画の数日前、彼らは突然〈鮨 平政〉を訪れ、この世界がどうだとか、特異点が建物の二階になんたらとか、理解しがたい話を丁寧に、しかしどこか恩着せがましく語った。話を聞いたヒラマサの綺麗な八の字眉をひと目見るなり、彼らは複雑怪奇なコンピュータの群れを二階に設置し、一生かけても使い切れないほどの大金を口座に振り込み、スタスタと帰って行った。

 今となっては、むしろよく調べ上げ、よく計画を練ったものだと、ヒラマサは感心するばかりである。もっとも、そんな感心の念もどこへやら、ヒラマサはお偉いさんたちとの通信を無視して、うまくいっているかどうかも分からないまま、向こう側に寿司を送り続けている。こんな身の上になったのだからこれくらいの自由は許されてもいいだろうと、心の奥底でそう感じていた。

 

 〈鮨 平政〉は今も、シークバーの始点を目指して進み続けている。お偉いさんたちの本当の目的は、いまだによく分からないままである。自分たちが作られた存在であるという事実に絶望し、この世界を破壊したいのかもしれないし、この不安定な世界が永遠に続くように、何か細工を仕掛けたいのかもしれない。お偉いさんたちはいつだって肝心な部分を隠したがるものであると、ヒラマサは不平をこぼしかけた。Q2に色々聞いてみようともしたが、そんなことをたずねても仕方がないと思い、やめておくことにした。本当は考えるべきことがたくさんあるはずだが、難しいことはひとまず脇に置くことにした。結局ヒラマサは、Q2の他愛もない話に、あってもなくてもいいような言葉をいくつか添えるだけにとどめた。それが彼のお気に入りだった。

寿司を握る

slimalized, 2025/07/12